空海が通常の出入りに使っていた蓮花門(れんげもん)
空海が最後に出た門が蓮花門
空海は晩年、生活のほとんどの時間を密教の道場である東寺の建設と、修行の道場である高野山の建設に費しました。
この為、東寺と高野山を往復する事が多くなり、蓮花門(れんげもん)から高野山に出発したといわれています。
空海は高野山までの道のり約80キロを3日〜5日間で歩いたのだそうです。
現在では考えられませんが、本当に3日〜5日程度で歩けたのでしょうか?
当時は靴はなく、わらぞうりだと思いますが、道は舗装はされておらず、雨、雪も掘った中、歩き続ける事を想像するだけで凄いですよね。
当時の空海の住まいは東寺境内にある西院(御影堂:みえいどう)です。
空海の死後、西院に空海の御影がまつられ、御影堂(みえいどう)といわれるようになったのだそうです。
831年、空海が51歳の時、体の不調を訴えて公職から身を引くことを淳和天皇に願い出ました。
しかし、辞意は認められませんでした。
832年、高野山の金堂が完成し、空海は東寺の西院(御影堂:みえいどう)に弟子達を集め、東寺と高雄山(神護寺:じんごじ)を弟子達に託して高野山に隠棲(いんせい)すると言いました。
ちなみに隠棲(いんせい)とは「俗世間を逃れて静かに住むこと」との意味であります。
まもなく空海が東寺と離れる時が来ました。
旅姿に着替えた空海は数人の弟子をともない、西院(御影堂:みえいどう)をあとにしました。
境内は建設工事の真っ最中、まもなく講堂が完成する頃、五重塔はまだ建ってはおらず、巨木の姿で境内に横たわっていたのでしょう。
空海は東寺の西にある門に向かいました。
もう二度と東寺には戻らない最後の旅立ちです。
空海が東寺から最後に出た門「蓮花門(れんげもん)」
足元には蓮の花が咲き、空海の足跡にも蓮の花が咲いていたという伝説が残っております。
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