遣唐使船 命懸けで唐を目指す空海の生存率は25%
遣唐使船
密教の奥義を求めて唐に向かう決意をする空海、全てはここからはじまるのでございます。
遣唐使船はは旅の無事を祈り、大阪の住吉大社で祈願を行い、住吉津(すみのえのつ)より就航しておりました。
空海の人生において唐に渡れるチャンスは1回だけでした。
現在のように立派な船でもなく天候の加減や予算の関係でいつでも船に乗って海を渡れる時代ではありませんでした。
空海の乗った遣唐使船は第十六次船で、16年ぶりの派遣でした。
つぎの第十七次船が出航するのは、なんと34年後のこととなり、この時すでに、空海はこの世にはいませんでした。
空海の人生において唐に渡れたチャンスは、この1回だけ。
空海のときに派遣された遣唐使船は、わずか4船、うち2船が唐に着く前に難破してしまいました。
舟が無事にたどり着ける確率は、片道50%、帰り道を含めれば25%の確率でした。
まさしく命懸けの旅、804年の5月12日出発。
空海は留学僧のひとりで、唐への滞在期間は20年と決められていたそうです。
出発してまもなく嵐にあい、1ヶ月ほど漂流したのち、なんとか到着。この地で密教を習得した空海は、幸運にも帰国の船に乗ることができ、806年10月、無事に九州に到着することができたのであります。
帰国後、空海は都に戻り高階遠成に帰国報告書である『御請来目録』(ごしょうらいもくろく)を託しました。
留学期間の20年を待たずに、なぜ、もどってきたのかという理由とともに、空海が持ち帰った品々などが記載されていました。
20年を待たずにたったの2年で帰国できたことも今となっては幸運であり、20歳も年を取っていれば、船は沈まなくとも体力が持ったかどうかの問題もあり。
しかも、現在と違い人間の寿命も短かったですから、無事に帰れたとしても現在のような空海としての地位は築けなかったのかもしれません。
(宝物館)
この時代に空海が唐から命懸けで持ち帰った密教こそ、その後の日本の文化にとって宝となり、空海の足跡は人生において時間と行動力の重要さを私に教えてくれたのでございます。
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