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東寺最大の滅亡の危機

11年続いた応仁の乱は終息の後、山城の一揆が勃発

 

応仁の乱
時は1467年、現在から約550年前の京都で幕府を東西2つに分ける大乱が勃発し、町は壊滅的な被害を受けました。

 

応仁の乱は11年間も続き、都を戦場にしてしまいましたが、東寺は運よく戦火をまぬがれていました。

 

11年間続いた応仁の乱も1477年に終息し、京都の街がやっと平和になった矢先の事であります。

 

山城の一揆が勃発
応仁の乱が終息した後も山城の国では、まだ戦いは終わっていませんでした。

 

1485年、応仁の乱終息8年後に山城国で発生した国一揆。

 

山城の国一揆集が東寺に集結。

 

一揆に対抗して幕府も兵をもって鎮圧に乗り出しました。

 

兵は農民を追い、農民は散り散りになって東寺に逃げ込んだのだそうです。

 

農民たちが軍兵に勝てるはずもなく、追い込まれてしまった農民たちは幕府の兵たちにこう言い放ちました。

 

「徳政令(債務破棄、債務免除)をくださなければ寺に火をつける。」と。

 

徳政令(とくせいれい)とは、時の朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して債権放棄(債務免除:借金をチャラにする。)を命じた法令のことであります。

 

追い詰められた農民たちにとって、一か八かの大勝負、最後のかけでありました。

 

しかい、それでも幕府は一歩も引きませんでした。

 

それから間もなく東寺から火の手があがりました。

 

どの堂舎からあがったかは定かではありませんが、見る見るうちに火は広がり、創建依頼の大火災となってしまいました。

 

この大火災で金堂、講堂、廻廊、鎮守八幡宮、南大門等を失い、焼け残ったのは五重塔、食堂、御影堂その他少しだけでした。

 

この火災が、東寺最大の滅亡の危機だったのです。

 

時代は戦国時代と移り、織田信長、豊臣秀吉も東寺に本陣をおいたそうです。

 

時は流れ、全てが復旧したのは117年もの月日がかかったのであります。

 

この間、落雷により五重塔も焼失してしまったり、いろいろな困難があったそうですが、今残る金堂は1603年豊臣秀頼が再建。

 

五重塔は1644年江戸幕府の三代目将軍徳川家光が、再建してくれました。

 

1491年、再建された中でも講堂は、室町時代の庶民が寄付を募り再建したものだそうです。

 

貧しい生活の中から少しづつ、お金を出し合ってくれた当時の人々の気持ちから、東寺の再建の一歩が始まったのですね。

 

 

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