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歴史的大舞台「あけずのもん」

不開門(あけずのもん)

 

1336年、足利尊氏と新田義貞の壮絶な戦いの舞台となった東大門こと現在の不開門(あけずのもん)

 

鎌倉幕府滅亡後(1333年)後醍醐天皇の新政策、建武の新政(けんむのしんせい)に不満を抱いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、反旗をひるがえした。

 

後醍醐天皇は比叡山に本陣をおき、足利尊氏は東寺に本陣をおきました。

 

後醍醐天皇側につく新田義貞ひきいる宮方が攻撃に出た。

 

足利軍もこれに応戦、各所で激戦が繰り広げられたのであります。

 

結果は比叡山という山を味方につけた宮方が有利、新田軍は総攻撃をかけました。

(下鴨神社;糺の森)
糺の森(ただすのもり)加茂川、桂川の西で激戦が繰り広げられ、戦局は新田軍が優勢、足利軍は苦戦し、退却するしかなかった。

 

勢いに乗る戦局優勢の新田義貞。

 

目指すは足利尊氏のいる東寺!

 

強靭な肉体に鎧をまとった2万の騎馬武者が、大宮通りを東寺に向かって大激走したのでございます!

 

そして足利軍と六条大宮付近で両軍の激しい激突!

 

しかし、足利軍は新田軍の勢いを止めることはできず、痛手をおった足利軍が続々と東寺の東大門(不開門:あけずのもん)から境内に流れ込んでくる。

 

最後の一人が境内に入ると同時に東大門(不開門:あけずのもん)は閉ざされました。

 

門前から新田義貞軍の矢の嵐!

 

その門(不開門:あけずのもん)をめがけて、無数の矢が放たれたのであります。

 

新田義貞が門外より足利尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、東大門(不開門:あけずのもん)は開くことはありませんでした。

 

新田義貞の挑発に足利尊氏は惑わされませんでした。

 

新田軍が東寺の東大門(不開門:あけずのもん)にとどまる事ができる時間はもうありません。

 

まもなく足利軍の土岐、石堂、吉良の軍が引き戻ってくるからです。

 

新田義貞の考えは足利尊氏を斬れば、軍は統制を失い戦いは終わると。

 

しかし、足利尊氏は門の外に出てくることはなかったのでございます。

 

このような好奇は二度と来ないと攻め入ろうとするが時すでにおそし。

 

数万の軍勢が、新田軍に攻め入ってきたのです。

 

戦局は一転して足利軍が有利となり新田軍(宮方勢)は撤退をよぎなくされました。

 

この戦いをもって両軍の明暗がはっきりとします。

 

その後、宮方勢の反撃もことごとく失敗に終わり、足利尊氏がこの合戦を、みごと逆転勝利しました。

 

後に東寺をめぐっておこなわれたこの戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんでございます。

 

以来、この門を足利尊氏軍から見て東寺では「不開門(あけずのもん)」というのだそうです。

 

現在もこの時に放たれた矢の跡が不開門(あけずのもん)に残っています。

 

後世、足利尊氏の先例にならい、織田信長、豊臣秀吉も東寺に本陣をおいています。

 

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