時間の流れを感じながら京都を旅してみませんか?
平安時代と現代とを結ぶ寺院「東寺」
現在から時間をさかのぼること約1200年前の794年。
784年より平城京から遷都さされた長岡京もたったの10年で平安京への遣都となり羅城門をはじめ東寺、西寺、大内裏などが建造され、日本の都「京都」が始まったのであります。
(平安神宮)
−目次−
1.長岡京
2.平安京と東寺
3.羅城門
4.西寺
5.朱雀大路
長岡京は京都市内からの鴨川と桂川が合流して流れる淀川が東から南に少しだけかかる形で流れており、そのすぐそばの南東には当時、巨椋池もあった事から雨の多い季節には、河川の氾濫も度々あったのではないかと推測いたします。
長岡天満宮
その時代、川は生活に欠かせないと同時に物流にも大きく恩恵を与えておりました。
いろんな物を川で運んでたんですよね。
長岡天満宮の東側の八条が池
そんな理由で淀川と巨椋池の近くに都を移したんですが、想定外の水害に悩まされることになります。
現在、巨椋池は干拓されて農地となり、当時のような大水害は無くなりました。
>>巨椋池 干拓
長岡天満宮は、水の宮殿のようであり、春先には真っ赤なキリシマツツジが咲き誇る景色は見事であります。
現代のようにネットでササっとハザードマップで洪水水没危険地域を調べることはできない時代。
京都市ハザードマップ
「都がたまにといえども水没するのはたまらん・・・」っと桓武天皇が言ったかどうか真実は、わかりませんが、やはりたったの10年で都を移したのですから、よほどの理由があったのでしょうね。
その他、ホントかどうなのかわかりませんが、早良親王(さわらしんのう)の怨霊などの説があります。
そして1200年も続いた日本の都、平安京が誕生するのであります。
平安京遷都から現在まで、ほぼ敷地面積及び立地場所が変わらずに今も現存する結一の建造物といえば東寺(教王護国寺)
金堂と五重塔
奇跡的に現存する東寺でさえ昭和初期の時点では、今のように整備されておらず荒れた状態だったそうであります。
当時の事をご存知の方に聞いたお話ですが、子供の頃、五重の塔の上に登って遊んでいたと言われておりました。
現在のように鳩よけの金網は設置されておらず、五重塔の上階には鳩の巣があちこちに作られ、その鳩の巣で産んだ卵を狙って、蛇のアオダイショウがたくさんいたそうです。
よくぞここまで持ち直してくれたものであります。
現在2014年1月。
平安遷都から1220年経った今でも、東寺は変わらずにその姿を維持してくれております。
日本一の高さを誇る五重塔は4回焼け落ち、1644年に再建された5代目であります。
5代目五重塔の建築時に、初層の屋根を支える隅の尾垂木と隅木の間に面白い彫刻が施してあります。
五重塔を支えるかのように、塔の荷重が掛かる場所に「邪鬼」を形取り四方に入れ込まれているのであります。
【南東】
【北東】
【北西】
【南西】
邪鬼とは、反発する架空の鬼。
反発する力で五重塔を支えるという当時の大工棟梁の遊び心なのでしょう。
約370年程前、このようなクリエイティブな発想をする日本人棟梁がいたことに喜びを感じます。
ヨーロッパではよく建築物に彫刻を施し、一体化させている建造物はありますが、日本ではめずらしい。
アントニ・ガウディの作品
スペインのバルセロナに1882年3月19日に着工して以来、現在も建築中のサグラダ・ファミリア。
サグラダ・ファミリア
ちなみに完成予定は、2026年。
建築期間:144年
このサグラダ・ファミリアに40年間にわたって携わっている一人の日本人がいらっしゃいます。
日本人彫刻家、外尾悦郎氏
(サグラダファミリア主任彫刻家)
代表作「ハープを奏でる天使」
正面の右上に施されているハープを奏でる天使。
>>外尾悦郎、その原点
東寺の五重塔は、時間の流れと共に、本質的には変わらずとも少しずつですが修正が加えられ「1644年」時の江戸幕府3代征夷大将軍、徳川家光の寄進で現在の5代目五重塔が誕生したのであります。
そして
御影堂近辺にも邪鬼がいます。
本堂は東寺の北西側にあり塀により区画されております。
弘法大使空海の住房(じゅうぼう=生活空間、お家の事です。)であった御影堂の近くの灯篭にも邪鬼があしらわれております。
長年この部分を邪鬼が反発する力で支えていてくれたんですね。
この「お尻邪鬼」以外にここの部分を支えている小さな邪鬼は周りに数体います。
お尻の部分を「ご利益がある」って事で触っちゃうのでピカピカにテカっております。
御影堂の近くですので一度探してみてくださいね。
お尻邪鬼の場所はこちらの記事に記載しております。
>>東寺の魅力 社寺仏閣を護る邪鬼
細かいところを散策すると面白いものが見つかる現代に残る平安京の空間、東寺であります。
毎月21日の弘法大師の命日には弘法市が東寺境内で行われており、たくさんの人で賑わいます。
南門前のお堀の池には、つがいの鴨と羅城門上階に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)のごとく南向きに睨みを利かしてくれている四羽のアオサギがおります。
東寺のアオサギは人慣れしているので、かなり近寄っても逃げません。
作り物のようにじっとしております。
よほど居心地が良いのでしょうか、ここ数年いつも出迎えてくれます。(2021年5月現在)
縁起がいいとされるアオサギは、エジプト神話に伝わる不死鳥「ベンヌ(Bennu)」に似ているからであります。
>>ベンヌ(Bennu)
鴨が数羽お堀の池で浮かんでいる様子を眺めているのも良いものであります。
お堀の深さは浅いため鴨は湖底をくちばしでかき上げながら餌をさがしております。
アオサギと鴨は、今や私の中では、東寺に居てくれなければならない大切な住人となっているのでございます。
平安京の表玄関の羅城門の規模ですが、幅約35メートル,奥行約9メートル,高さ約21メートルの東西に細長い構造で南からの強風により数回崩壊しております。
(京都駅前:羅城門1/10模型)
京都に住んでいるとよくわかるのですが、東、西、北には山があり、その方向からどんな強風が吹いたところで三方の山が風の盾となってくれます。
一方、何もない平地の南側から来た風はもろにくらってしまうのであります。
東西に長く、南北に短い羅城門は非常に薄っぺらい上に頭でっかちの二重閣(2階建)、少しの風でも揺れていたことが想像できます。
せめてあと少し南北側の幅を東西方向の半分強(約20m)ほど大きくしておけば、幅約35メートル,奥行約20メートル,高さ約21メートルとなり、強度はかなり向上し、羅城門の運が良ければ、現在も九条旧千本に残っていたのかもしれませんね。
羅城門跡
816年8月16日,大風により倒壊、その後再建されましたが、980年7月9日の暴風雨でふたたび倒壊し、その後、再建される事はありませんでした。
(黒澤 明 監督作品:羅生門より)
羅城門跡地付近には、その後、建築物等が建っておりますが、何故か基壇部分の礎石も何も見つかっていないようであります。
どうやら1023年に藤原道長(ふじわら の みちなが)が法成寺造営に使うために羅城門の礎石を運搬したとされる事は真実のようであります。
法成寺跡
現在は、京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつ おうきこうとうがっこう)のグランドの片隅に石碑があるのみであります。
平安中期に造営されたとされる法成寺(ほうじょうじ)は、宇治の平等院の手本となったことでも知られております。
鴨川から見た法成寺をモデルとして宇治の平等院を作ったのであります。
今では河原町通りが南北に通り、建物が立ち並ぶ街並みと変わってしまいました。
荒神口交差点
宇治の平等院の原型の姿が鴨川から見えたとは、今ではまったく想像もつきませんが、平等院と同じく法成寺も立派な寺院だったのでしょうね
>>法成寺(ほうじょうじ)
2013年5月時点で羅城門の発掘調査は、4回行っているのですが、羅城門の痕跡は見つかっておりません。
980年7月9日の暴風雨での倒壊以後、羅城門は再建されることなく、現在小さな公園(唐橋羅城門公園)となり跡地を示す石碑のみひっそりと建つのみであります。
羅城門の基壇の石をすべて法成寺に転用し、羅城門の痕跡も全く見つかっていない現在。
道長君やってくれましたね。
羅城門の基壇は何処へ。
【京都市歴史資料】
規模:幅十丈六尺(約35メートル),奥行二丈六尺(約9メートル),高さ約七十尺(約21メートル)。
現在、羅城門の再建を呼びかける声もあがっております。
(2020年10月20日)
日本経済新聞の記事
>>羅城門を再現へ協力呼びかけ
尚、羅城門の規模についてこの記事では「幅80メートル、高さ24メートル、奥行き21メートルと推定されている。」と記載されております。
東寺と対象に造営された西寺、桓武天皇の第2皇子である嵯峨天皇(さがてんのう)より、東寺は空海、西寺は守敏(しゅびん)に下賜(かし=身分の高い人からくださること)されたのであります。
東寺と左右対称に作られた西寺、現在では東寺の弘法大使空海の方が有名ですが、下賜(かし)当初、守敏(しゅびん)は空海よりも上席の僧であったのでございます
何かと対立していた空海と守敏(しゅびん)でありますが、大きく世に力を示したことで有名なのが「神泉苑の雨乞い」
824年、即位して間もな淳和天皇(じゅんなてんのう)の命令により、干ばつが続いた都に雨を降らせるべく空海と守敏(しゅびん)に雨乞いを命じたのでございます。
結果は、皆様ご存じの通り九日間の祈祷の末、みごと空海が大雨を降らせたのであります。
>>神泉苑は京都屈指のパワースポット!善女龍王様の御利益とは
その後、時間は流れ1233年に最後まで残っていた西寺の五重塔も焼失してしまい再建されることはありませんでした。
現在「唐橋西寺公園」として公園中央の少し小山になった部分にひっそりと石碑が立っているだけでございます。
多くの修行僧や平安の人々に親しまれていたであろう西寺が1200年前には、確かにこの場所にあったことは紛れもない事実。
4月には松尾大社のお祭りの休憩場所となる唐橋西寺公園には、子供たちの遊ぶ声が飛び交い、地域住民の憩いの場となっている事には、東寺となんら変わりはありません。
姿を変えてしまった西寺もまた、私たちの心の中で現代での役割を果たしてくれているのかもしれませんね。
84mの道幅で羅城門から北の大内裏まで約4kmを豪快に続く朱雀大路。
雰囲気はなんとなく似て良そうな京都御苑の通路もかなりの幅と長さがある通路が通っております。
京都御苑
洛外から羅城門内に悪霊その他を寄せ付け通せないように羅城門の2階に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)。
大内裏から南を見渡せば朱雀大路を中央に左右対称に造営されていた東の東寺と西の西寺。
五重塔が二つありましたから見ごたえあったでしょうね。
もっとも同時期に建っていればの話でありますが。
朱雀門
大内裏の入り口に当たる朱雀門は、現在の千本通り御池を上った場所になります。
現在は、宅地の一角に小さな朱雀門阯碑が建てられているのであります。
朱雀門は、1208年9月に火災に遭い、翌年に再建されましたが、大工の棟梁が急がされたのかどうかはわかりませんが「構造的欠陥」のため、1211年自然倒壊してしまったのであります。
3年弱?
完全な「構造的欠陥」でございます。
以後、再建される事はありませんでした。
朱雀門跡地より
南側羅城門方向の風景
南の羅城門から4q北の朱雀門は壇上積の基壇の上に建てられた中央五間に扉が付く二階門であります。
瓦葺きで朱色に塗られた門から見える大内裏の中には、朝堂院の入り口である応天門が見えたであろう事が想像できます。
朱雀門跡地より
北側応天門方向の風景
現在は、宅地の一角に小さな朱雀門阯碑が建てられているのみであります。
大極殿
こちらは、千本丸太町の北西角にあったとされる大極殿跡
朱雀門、応天門を潜り抜けた朝堂院内の真正面の位置にあった大極殿跡であります。
大極殿跡
朝堂院は大内裏の中心に位置し,天皇の即位式など重要な国家的行事を行う場でありました。
その中心となる正殿が大極殿(だいこくでん)であります。
大極殿は、1177年に大火後は再建される事はなく重要な国家的行事はそれ以降、内裏内の紫宸殿で行われていたとの事であります。
この場所は、内野公園
重要な国家的行事が行われた舞台も現在、北の端に大極殿跡の石碑が建つのみであります。
私が生まれる遠い昔に消えてしまった痕跡をたどり、先人が築いてくれた「京都」を少しずつ心に焼付に行こうと思います。
何度も消滅の危機を乗り越えてきた世界遺産「東寺」をはじめ、平安京遷都から現代までの時間に築き上げられてきた京都の歴史と文化に敬意を払いつつ、足腰が立たなくなろうともキーボードをたたく力がある限り、平安京の旅!京都時間旅行を続けてまいる所存でございます。
何卒
宜しくお願いします。
(東寺:五重塔)
平安京オーバーレイマップ
平安京オーバーレイマップとは、平安京復元模型が現在の京都とどのように重なっているかを示した超優れたスーパーマップなのです!
平安京散策には平安京オーバーレイマップは、重宝しますよ。
もちろん無料でございます。
京都市 ハザードマップ
京都市 水害ハザードマップ
「水害ハザートマップとは,洪水予報河川及び水位周知河川の河川管理者が作成した洪水浸水想定区域図に,指定緊急避難場所やその他洪水時の適切な避難を確保するために必要な事項等を記載した地図です。」
>>京都市 水害ハザードマップ
京都市域の浸水履歴
市域で発生した浸水被害の履歴を,町丁目単位で公表しています。
>>京都市域の浸水履歴
京都市の洪水浸水想定区域図
洪水浸水想定区域図は所管の土木事務所で確認することができます。
>>京都市の洪水浸水想定区域図