現存する平安京の空間「東寺」
現代に残る平安京の空間
京都の南に位置する東寺は、現在も唯一現存する平安時代の空間であります。
平安京オーバーレイマップを見ていると朱雀大路を中心に左右対称に都市計画をされた平安京ですが、実際にはこのような完全体の姿で平安京の街が完成したことはありませんでした。
「平安京跡イメージマップ」を、現在の地図上に配置し、照合できる優れものです。
このサイトの地図画面の右上にあるスライダーを左右に移動させると、平安京マップの透明度を任意に変更できます。
現在の街の状況と照らし合わせて見れるので現在いる場所が平安時代ではどこだったのかがわかる便利な地図でございます。
>>平安京オーバーレイマップ
京都の街の高低差は、北部が高くて35m以上あり、南西方面に向かって下げっております。
このような立地条件もあり、朱雀大路より西側と二条通りより南側の「右京」と呼ばれる範囲は、水はけが悪いことから次第に人々が住まなくなっていったのであります。
右京に位置する西寺の衰退の原因の一つでもあり、東に設けられていた東寺は、立地にも恵まれていました。
平安京の造営は桓武天皇により794年、大内裏(だいだいり)から建設が始まり、それから2年後に東寺と西寺の造営が始まりました。
東寺の総指揮には大納言藤原伊勢人(だいなごんふじわらいせんど)、西寺の総指揮には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命されたとの事であります。
東寺は東西に約255m、南北に約515mの敷地に現在、金堂、講堂、食堂、五重塔、その他諸堂が立ち並んでおりますが、東寺で最初に建てられたのが金堂(こんどう)であります。
しかしながらこの金堂を建てるだけで、なんと約27年もかかったということですから気が遠くなるのでございます。
建築期間がこれほどまで伸びた理由は、当時の建設技術の問題だけではなく、平城京から長岡京への遷都。
その後、わずか10年で長岡京から平安京に遷都してきた事から、後々財政をかなり圧迫してしまった事も大きな原因の一つであったようです。
当時、国営であった東寺と西寺の造営にも、かなりの影響を与えたのではないでしょうか。
その後、京都には数多くの歴史上重要な建造物が誕生し、時間と共に次々と消えていく中、1200年以上もの長期間にわたり現在も当初の面影を残してくれている東寺。
遣唐使として唐から真言密教を持ち帰った空海との出会いもまた、東寺が現代までその姿を残すことができた大きな理由の一つなのですね。
823年、嵯峨天皇は東寺を空海に一任。
その後、官寺としての性格を残しながら、真言宗の中心寺院として栄えていくことになるのであります。