案外汚れていた平安京時代の京都
平安京にとって、794年は遷都の年、都市がその年にできたのではなく、長い年月がかかりました。
現在、平安京時代の建物や地図の資料を確認できるものが、100%そろって「これで平安京が全て完成した。」という瞬間はなかったのでしょう。
近年、平安京の都市計画の一部も実施されないまま時代が移り変わっていったとの説も有力であります。
982年に書かれた『池亭記』(ちていき)という書物に記載されている内容から、右京が衰退したことや左京が栄えたこと、民家が平安京を超えて北野、鴨川周辺に進出し、住みたいところに住む市民が増えてきた事がわかっております。
右京は京都の水下に当たり、その頃は整備もされておらず湿地帯の状況で人が暮らすには不向きな土地だったのですね。
この為、人々は次第と朱雀大路より東に移り住み左京は住宅密集地となるのであります。
この頃から平安京の規格性か失われて、現在の京都に繋がる暮らし方が始まっていきました。
緑の山に囲まれ、鴨川や桂川は透きとおったきれいな水が流れている。
そんなイメージですが、現実は平安京造営の為、周囲の山の木々は伐採され、緑いっぱいの山とは程遠い状態だったのではないでしょうか。
街中は現在のような水洗トイレは当然なく、糞尿の臭いが充ち、ゴミの回収車も当然なく、あちこちの道にゴミが散乱としていた。飢饉ともなれば食を求めてさまよう浮浪者が大量発生し、破棄された死体もあちこちに見られ、鴨川は死体の捨て場となりました。
王朝の華やかさだけが平安京のイメージを作り出していますが、市民の暮らしは楽ではなく、現在とは比べ物にならないほど大変だったのでしょう。
子供の喧嘩や主婦の井戸端会議、夏は夕涼みに秋は月見、このころから長い年月を重ねて少しずつ現在の京都が形作られてきたのであります。
平安後期には、朱雀大路より東にある河原町通りを中心とし、岡崎方面にまで住居や社寺仏閣が拡大していきました。
現在、衰退し細い道となっている六条通りも平安京造営当初は、30mほどの道幅を持つ通りでしたが、左京は人口密集地の為、無断で道路に家を建て始めた事が、現代の六条通りの衰退と行き止まりの原因なのであります。
憧れの平安京。
住むのは現代が一押しの巻でございました。