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焼失と再建を繰り返した内裏
現代の朝堂院 平安神宮
大内裏は東西に約1.2キロ、南北に約1.4キロの広さをもち、周囲には高さ2mほどの築地掘りで囲まれていました。
大内裏の中には、皇居である内裏(東西約220m、南北300m)、朝堂院、部楽院などの儀式や宴会用の建物や官衙(役所)郡が立ち並んでいたそうです。
門は14あり、最も重要な場所は大極殿だったそうです。
大極殿跡
こちらは、1895年(明治28年)に8分の5サイズの朝堂院として平安神宮が建立されました。
朝堂院の入り口の門である応天門も縮小ではありますが復元されたております。
朝堂院の北側中央には縮小された大極殿が復元され、明治28年当時は、大感動ものでしょうね。
天皇の住まいであった内裏には紫宸殿(ししんでん)【内裏の心臓部】、承香殿(じょうきょうでん)【後宮七殿の中心】、淑景舎(しげいしゃ)【桐壷とはここのこと】、清涼殿(せいりょうでん)【天神様が祟ったという】、飛香舎(ひぎょうしゃ)【藤壺とよばれた】。
当時、天皇の住まいだった内裏は11世紀以降、大内裏の外の貴族の邸宅などを「里内裏」(さとだいり)として使用し、洛中を転々としていたそうです。
しかし、13世紀には内裏そのものが消失してしまい14世紀の里内裏(さとだいり)である「土御門殿」が母体となり、その後、京都御苑が築かれたそうです。
こちらは、1895年には平安神宮が建立された時に縮小復元された大極殿
平安神宮の社殿は、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。